一生懸命でも一生懸命じゃなくても楽しいかどうかが大事?
つい向きになって、頑張っちゃうと言うか、夢中になってしまって、物事をやり遂げることに向きになって、本来の目的から外れてしまうということがままあります。そういう時って、もう楽しくなかったりする。
スマホでゲームなんかも最初は暇つぶしにとか、最初は簡単でクリアも出来て楽しいのに、段々と目的が変わって暇つぶしどころか、時間があればゲームするというならまだしも、寝る間も惜しんで、やることもやらずにゲームをしてしまうという事態になったり。
ドラマとかアニメの中でも、何か一生懸命にやっていると、かっこよかったりしますが、それ楽しいの?それでどうするの?とか言われてハッとするみたいな。好きで始めたことなのに、いつの間にか辛いのにやらなくちゃいけないと思うようになったりして。
仕事でもスポーツでも遊びでも、突き詰めていくと段々厳しくなっていくよね。そこを乗り越えれば、また楽しいと思えるのかもしれないけど、途中たのしみ方、忘れちゃうんだよね。
一見本気出してないような、一生懸命でない人に限って、そういうとこわかっていて着地点が見えているように感じたりして、何のために一生懸命で、何を楽しいと思っているのかわかっているのかもと思ってしまう。
そんなことを考えるようになって、ようやく努力をするということを少しだけ楽しめると思うようになれた気がする。考え方だけど苦しい事も、楽しいの中にあると思えればいいのか、何でも捉えようですね。ということは全部たのしいと思っちゃえばいいのかもね、なんて。
スポーツだとチャンピオンは1人、もしくは1チーム、それ以外は悔しい思いをするものだ。でも頑張る、勝てるとは本気で思っていなくても、だったらやめるとはならない。勝利することだけが魅力ではないのだろう。それはそれでいいものだと思う。
私はチャンピオンになれるとは思っていないけど、社交ダンスを長い事やっている。なんで続けているかは、はっきりとはわからないが、やめることを考えるとやめたくはない。
いいと感じる事と嫌と感じる事でいい方が勝っているのかな。嫌な部分がないといいと思う事も無くなってしまうかもね。
結婚なんかも私にとってはそうなってしまっているかもしれない。幸せになろうとしてした結婚も時間とともに価値観も変わるし、いつしか辛い思いをしている時間が多くなってしまっている気がする。
社会の中で責任が大きくなっていくと、相手のためになってあげたいし、都合を合わせてあげたいが、こちらにもいろいろと事情がある。立場が違えば価値観も違う、どんなに良かれと思って行動しても、相手にとって良くなければ、お互いにとって辛い思いをすることとなる。
何もしない方が、何の問題も起こらないが、それでは成長も成功もしない。分かり合える人といると気分もいいものだが、理解されない人といると苦しくて辛い。相手もそう思うのだろうね。
辛いことをすべて排除することは出来ない。苦労を乗り越えて成長していく事で辛かったことを辛いと思わなくなっていくのだろうか。そういう意味では結婚や子育てとはいい修行になりますね。
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