私たちは、自分の欲望を「自分のもの」だと思っている。誰かを愛したいとか、認められたいとか、老いることが怖いとか。しかし進化生物学は、ここに冷たい問いを投げかける。——それは本当に「あなたの」感情なのか、と。
「隠された排卵」という、気の遠くなる計算
チンパンジーのメスは、排卵が近づくと体が赤く腫れ上がる。魚は産卵期に色が変わる。ほとんどの動物にとって、繁殖のタイミングは外から見てわかるものだ。ところが人間の女性には、そのサインがほぼない。本人でさえ、検査なしに排卵日を正確に知ることはできない。
ジャレド・ダイヤモンドはこの「隠された排卵」を、無数の生存圧力の中から選び抜かれた戦略として論じる。排卵を隠すことで、複数の男性が「もしかしたら俺の子かもしれない」という状態に置かれる。野生の世界では、父親候補が増えれば子が殺されるリスクが下がる。そしてもう一つ——排卵日が読めないからこそ、パートナーは「いつかわからないチャンス」のために、離れずそばにいるしかなくなる。
これを初めて知ったとき、私は少し眩暈のようなものを感じた。私たちが「愛の形」と呼んでいるもの——共に暮らす、子を育てる、いつでも触れ合う——が、その根っこをたどれば、数百万年の生存計算の産物だったとすれば、「愛する」という動詞の意味は、一体どこにあるのか。
それでも、その形の中に本物の愛が宿る、ということはあるのか。
男が「仕留めた獲物」を家族に持ち帰らない理由
現在も狩猟採集生活を送るある部族の研究で、奇妙な事実が記録されている。男性が命がけで仕留めた大型獣の肉の、75%以上が自分の家族以外に配られていた。
もし家族の空腹を満たすことが目的なら、これは非効率だ。小動物や木の実を地道に集めたほうが確実にカロリーが得られる。実際それをしているのは女性たちで、部族全体のカロリーの大半を担っている。では男性の「壮大な無駄」は何のためか。
答えは評判だ。「あいつは大物を獲った」という記憶が村に広まることで、影響力が生まれ、別の交配機会が開かれ、いざという時に仲間になる者が増える。現代社会で男性が出世に執着したり、高価なものを誇示したりする衝動は、このアーキテクチャがビジネスという舞台で動いているにすぎない——ダイヤモンドはそう指摘する。
進化的な傾向を知ることと、それを行動の免罪符にすることは、全く異なる話だ。「不倫が絶えないのは男性の本能」という文脈で語られると、構造的な責任を霞ませる効果がある。進化生物学が明らかにするのは「傾向」であって、「必然」ではない。人間は本能の自動機械ではない——それもまた、人間という生き物の奇妙さの一つだ。
しかし、ここで少し立ち止まりたい。本能を「言い訳」として使う読み方は確かに危うい。一方で、本能を完全に「克服すべき野蛮」として見るのも、また別の歪みを生む。私たちは、進化のプログラムを透明なガラス越しに見つめながら、「それを知った上でどう選ぶか」を問われている存在なのではないか。
閉経とは、自分の命を次世代へ譲り渡す行為である
地球上で、生殖能力を失った後も長く生きる生き物は、人間とごく一部のクジラだけだ。ほとんどの動物は、繁殖できなくなる頃に命も尽きる。人間の閉経という仕組みは、生物学的には相当な異常事態だ。
ダイヤモンドが紹介する「おばあさん仮説」は、これをこう解釈する。高齢での出産は母子ともにリスクが高い。ならば、自分が新たな子を産むギャンブルをやめて、すでに生まれた孫の生存確率を高めることに全力を注いだほうが、遺伝子の継承という観点では合理的だ、と。タンザニアの狩猟採集民を調べると、部族の中で最も多く食料を集めていたのは、閉経後の年配女性たちだったという。
さらに、文字のなかった時代において、長く生きた者の記憶は、部族の生存を左右するデータベースだった。60年前の飢饉に何が食べられたか。数十年に一度の嵐はどう乗り越えるか。その知識は、若い命を産み続けた女性には蓄積できない。閉経という仕組みは、ある個体が「産む機械」から「知恵の容器」へと転換する、巨大な役割の交代だったのかもしれない。
私たちは「若さ」という価値を、少し問い直せるのではないか。
これは単なる生物学の話ではない。私たちの社会が「若さ=価値」という図式をあまりにも当然のものとして扱う時、進化の歴史はそれに対して静かな異議を唱えている。老いた身体に蓄積されているのは、衰えだけではない。
「本能を知る」ということの、本当の意味
ダイヤモンドの本を読み終えた後、不思議な感覚が残る。自分の欲望や感情が、数百万年かけて蓄積されたプログラムの出力だとわかった。それは、自分が少し遠くなるような、でも同時に、人類全体と奇妙につながったような感覚だ。
「なぜ夫は家族より仕事を優先するのか」「なぜ妻はいつもそばにいてほしいと言うのか」「なぜ老いることがこんなに怖いのか」——これらの問いに、感情論でなく構造的な答えを与えてくれること自体、この本の価値は揺るがない。
ただ、本能を知ることの本当の意味は、「仕方ない」で終わることではないと思う。それは、自分の中にいる「本能という名の他人」を知ることで、はじめて「では私はどうしたいか」を問える、ということだ。プログラムを意識できる存在は、プログラムを相対化できる。それが人間という生き物の、もう一つの奇妙さだ。
パートナーへのイライラも、出世への欲望も、老いへの恐れも——それが本能だと知ることで、すこし客観的に眺められるようになる。そして客観的に眺められるということは、そこに選択の余地が生まれるということだ。
進化は私たちに多くのプログラムを渡した。しかしそれをどう使うか、あるいは使わないかを、考えることができるのは、今のところ人間だけらしい。
★「本能の正体をもっと知りたい人へ」
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